自分にとって要らない縁は切っても大丈夫。決戦は木曜日。
暑さに慣れるために連日42度の湯船にたっぷりつかっております、スイミンです。
こんにちは^^。
本日は、息子のことで夜に塾へ出撃しなければならず、胃が痛いです。(泣)。
他にもいろいろ忙しいため、珍しく朝からの記事更新です。
息子が塾で何か悪いことをしたのではなく、逆なのですが、相手が大の大人の男性二人であり、
また、大手塾のお偉いさんたちは本当に頭が回るし口も回るため、
こちらが謝られに行くのに逆のような気分になります。
こういうときこそパパの出番ですが、
今、北海道に住む大親友が娘さんの大学入学のため、こちらまで来ており、
夫さんは前々から一緒に飲む約束をしています。
なかなか会えないため、仕方がないですが、
この、夫さんの大親友さん、何度かこちらのほうに来ているのですが私は中々お目にかかるときがありません。
よっぽど縁がないらしい(笑)。
というわけで、
本日は「縁」のはなしをしたいと思います。
今までちょっと避けてきた系のはなしも、ボチボチ書いていこうと思います。このブログも、まともに毎日更新を始めてから、約半年は過ぎた頃なので。
ちょっと重たいかもしれないので、所々でうちの生き物さんたちに中和していただきます。(^^)
縁、というと私の場合は、こちらが望む望まないに関わらずやたらと縁のある人と、全く縁のない人と、わりとキッパリ分かれるタイプです。
なので、私が気になる人で、本当に縁がある人とはすごく仲良くなったりします。
また逆に、私が気になる人で、本当に縁がない人とは全く仲良くならないまま終わるし、
または、こっちはいい加減もういいや、と思っているのにたびたびどこかでバッタリ会ってしまうような人も。
しかし、縁、というものがどんな形でも誰かとあった場合には、絶対に自分からチョッキンと切ってはならないのだそうです。
なぜかと言うと、人との縁というのはいわゆる神さまからのギフトかつ試煉であり、生まれたときからあらかじめ用意されていて、
それを自分から切ってしまうのは、
せっかくそのひとつの「縁」から他へ派生していき自分の人生の選択肢がさらに広がるはずだったのに、
それを自ら放棄してしまうことだから、なのだとか。
ところが、これは例えば恋愛などでは成り立ちませんよね。
付き合ったり別れたりというときに、
縁があってお付き合いしたのにどちらかが縁を切り、別れる。別れて縁を切る?でしょうか。
離婚などもそうですが、こと男女間の問題に関しては、
どうしても、縁を切らなきゃならないときがあります。
でも、縁を自ら切るのはよろしくない。
となると、一体どうしたらよいかと言うと、
「今はサヨウナラ」
という技があるらしいです。自己啓発的な本は腐るほど読んできましたが似たようなことが書いてあるものがたくさんありました。仕事でも本当によく見かけます。
「とりあえず今は離れましょう。でも、今世か来世かわからないけどお互いの都合がよくなったら再会しましょうね」
という状態で別れると、縁を切るうちに入らないのだとか。
でも、それって、
本当ですかねぇ・・・
縁を自ら切るのはやっぱりあまりよろしくはないと思いますが、
中には、どうしようもない腐れ縁みたいなものがありますよね。
それこそ、
現世で絶ちきっておくべき縁。
というものもあると思うのです。
親子の関係でも夫婦の関係でも、兄妹姉妹、恋人、友人、知人……などなど、
中には、どうしようもない縁、間柄、というものがあると思います。どんな縁や間柄が必要がないかということは、ひとそれぞれで違ってきますけれど、
そういうものは、
そのままの状態を続けても、先の人生でどう考えたって素晴らしい展開は望めないはずです。
特に、何を言ってもしても無駄な人や、絶対に自分の考えを曲げない、人の話に耳を貸さないタイプなどは非常に厄介でどうしようもないものです。
自分にとってはマイナスにしかならない人との縁を保ち続けるということに、いい意味はほぼありません。
ならば、瞬間的にはちょっと痛いかもしれないけれど、
その腐れ縁、今のうちにチョッキン。
したほうが、実は自分のためになると思うのです。
来世でもぜったいに関わりたくない人間というのも、
いる人はけっこう多いと思いますから。
縁を切ったことによって、なんらかのペナルティを受けるのだとしても、
長期的な苦しみに比べたらずーっとマシ。
です。ちなみに私はペナルティなるものを受けた記憶はありません。
「一期一会」、という言葉があります。
あれは、人との出会いすべてに感謝しましょう、という意味ですし、
感謝するのは、嫌な思いをさせてくれたことにも感謝しましょう、ってこと。ですが、
感謝したあとは、自分の思うように生きるべきであり、その出会いを引きずることとは全く違います。
私はそう考えます。
不思議な話ですが、縁、も、一期一会、ももとは仏教用語なのですよね。
なかなか侮れない考え方だと思います。
そんなわけなので、夜の息子の塾への出撃でも、
息子が縁をチョッキンする代わりに、私が今のうちにチョッキンしようかなと思っています。
親としてできることがあるうちは、身代わりになりたい母です。この先はやりませんけどね。あとは息子本人の人生ですから、自分で頑張ってもらいたいと思っています。
そして、その際は、
相手を全否定するのではなくて、
「もうわかりました、息子との接点があるまではよろしく。なくなったらサヨウナラ。」
という方向性が必要になってきます。
会社でも友人でも他の人間関係でもすべてにおいて、
どうしようもない間柄があるとしたら、
「接点があるまではよろしくね。なくなったらサヨウナラ」
という心もちを持っていると、人間関係に悩む人は少しは救われるのではないかと思います。
他人のことは絶対に変えられないけれど、他人を変えようとしたりする努力はしたくなります。
ところがそれはおごりであります。
無理なんです。中には、断固として拒否しまくるタイプもたくさんいますし、
多くの人が、子どもの頃のような発想の柔軟性を失っています。
これは声を大にして言いたいのですが、
他人の人生論や生き方のすすめ、辛いときはどうしたらよいか、というものに惹かれている人というのは、その時点で多かれ少なかれ病んでいます。かつては私もそうでした。
そのことは全然構わないし、一時的に救われるのであればいいことです。しかし、
問題なのが、
そういったはなしを書いている人間と、
読んでいる自分は、
全く別の人格を纏っている、
ということで、今現在生きている土壌、環境、物の考え方、生まれつき持っている性質は全く違うので、
その人と同じことをすれば幸せになるわけではないということ。当たり前なことですが当たり前だと思っていない人が多い印象があります。
耳を傾けて、参考になるものは取り入れる価値があるけれど、その人の言われるがままに行動してしまうのは、
洗脳と一緒です。
一人一人、手相が違ったり、親が違ったり、誕生日が違うことにはやはり意味があり、その意味というのは
自分は自分である、という証。です。
忘れてはならないです。他のなにかになりたいのならば別ですが、
自分で考え、自分の言葉で語れないうちは、現状は変わりません。本当に。
私はたぶん世の中の誰かしらに、そういうことに気が付いてもらいたいからこういうことを書いているのでしょうが、おそらくほとんど無駄であるという前提で書いています。
しつこいですが、人を変えることはおごりであり、無理だからです。
というよりも、変える必要がないんです。あとはその人が自分でなんとかしなければならない問題だからです。(あっさり結論・(笑)
だから、私は試行錯誤の末に、自分の言葉を見つけ、考えて、自分のやり方を確立してきました。そのやりかたは最後に書きますが、
建設的なことが好きなので、誰かの話に傾倒するよりも楽しかったのです。今だからできたことではありますが、
自分のことならいくらでも変えられますからね(^-^)
だから、接点があるまではよろしくね。なくなったらサヨウナラ。
ただし、こちらの準備が整ってからです。
ここは重要です。虎視眈々と、準備をしつつ、機会を待つべし、なんです。
さて、夜までに作戦をもう一度、よく練りますか!(*^^*)
決戦は木曜日です。
今回は、私は数ヵ月に渡り準備を整えてきました。
相手の人間性、日頃の様子、そして相手との縁が、いいものであるかないか、見極めるために少々痛い思いをしてきました。
これが私のやり方です。流れ的には、
「これはあんまりよくないご縁かもしれなという疑問」→
「それを確かめるためにしばらく相手を観察」→
「確かめるためにちょっと痛い思いもしてみたりする」→
「今のうちに切ったほうがよいと判断する」→
「そのための準備を整えておく」
という感じです。
今回もなかなか楽しかったですが、(マゾっぽい)
その結果、接点があるまではよろしくね。なくなったらサヨウナラ。という結果に至りました。って書くと大げさですが、そんなに大げさなものでもありません。
大げさに考えなくても全然大丈夫なことなんです。
どこかの誰かのちょっとした参考になれたなら、幸いです。どうかいいところだけ(もしあればね)、取ってください^^🌸
大変長くなってしまいましたが、
本日もお付き合いくださり、ありがとうございました(^_^)v
スイミン(skyaya)